「オウム真理教と信者の責任」

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家族の会臨時総会 パネルディスカッション要旨

2004年2月8日に東京都で行なわれた、家族の会臨時総会はマスコミに公開されて行なわれ、「オウム真理教と信者の責任」というテーマでパネルディスカッションがありまし た。その要旨をここに掲載します。パネルディスカッションに御出席頂き、パネリスト、発言者および司会としてご尽力頂いた各氏にこの紙面を借りて、感謝申し上げます。また、総会にご出席頂いた会員の方々に も感謝を致します。

テーマ「オウム真理教と信者の責任」

パネリスト:浅見定雄(宗教学者)、西田公昭(社会心理学者)、パスカル・ズィヴィ(フランス人、カルト研究者)、滝本太郎(弁護士)

発言者:貫名英瞬(僧侶)、平岡正幸(牧師)

司会:小野 毅(弁護士)

(以下記述を簡略にするため敬称は略する。御了解下さい)

 

司会(小野)

パネリストの皆さんは、それぞれの立場で、オウムの被告人と接触を持った経験があるが、今まで、係わった内で、死刑判決を受けた、または、受けようとしている被告の人間性についてどう思いますか。

浅見

オウム関係者は裁判所から接見を許された4人だけしか会っていないが、みんな好青年である。これは他のカルトの場合も同じで、私は35年前から統一教会関係の信者、数百人に会ってきたが、統一協会に入らなければ人を騙して価値のない物を数千万円で売りつけるような若者に出会ったことは一度もない。だからマインド・コントロールが解け、目覚 めると、「いくら教祖の命令とはいえ、なんという“ひどい”ことを私はしでかしたのか」という非常な後悔の念を例外なく持っている。カルトを辞めればこれだけ深く懺悔できる若者が、“ひどい”ことを本当にやらされてしまうのがカルトの問題で、この点をあちこちの裁判所で証言して来た。オウムの元信者も全く同様で、接見して見ると、笑顔が素敵で、私の方が心を癒された。この人たちは、オウムに遭わなかったら、海外青年協力隊に入るつもりだったとか、みな世の中の人のためになったであろうと思われるような良い若者たちばかりである。あるオウム元信者の被告は、独房に入った当初は、“修行して被害者達の苦悩を吸い取ってあげるのだ”と真面目に考えていたが、ある時、自分の考え方が「傲慢である」という ことが判り、修行は止めて懺悔だけするようになった。そして、私の接見した被告4人全員、“他の人がいなければ、自分は生きられないのだ”ということに気づいている。

西田

彼らは拘置所の中で、“大変愚かなことをしてしまったと悔いているが、どうして良いか判らない状態である。この件で印象的なことを紹介する。公判の中で最も反省の色が見えないと外からは見られた被告と話をした時、彼が最も事件を重大に受け止めているように思えた。彼は「今、何が出来るであろうか、謝ったりしても、被害者の方に伝わらないであろう。また、自分のことを言ったら、罪を減じて貰うための弁明にしか聞こえないであろう。私は弁明などしたくないので、私は何も言えない」といっていた。彼はマインド・コントロールが既に解けている。彼らはテロリストのように言われているが、実際に会って見ると、病気でなく、心神喪失や心神耗弱でもなく、極悪な人でもない。彼らは礼儀正しく、真面目で、人生を誠実に生きようとしている人たちである。マインド・コントロールの影響下にある人達とテロリストとが大変異なる点は、テロリストは自分の利益のためには、多少の人の犠牲は仕方がないという考え方であるが、マインド・コントロール下の人は自分達の行為を“救済“と言っているように、“人々を助ける善意の行為”として殺人が位置づけられている。したがって、サリンを撒布する際、彼らはこれらの行動を“救済”、“善意の殺人”と考えて躊躇なく行なえた。彼らの考え方は一般の人々には理解しがたいものであるが、組織的にマインド・コントロールされてしまうとこのような考え方になる。アメリカが日本に原爆を投下したが、これは投下ボタンを押した兵隊が悪いのか、原爆投下を決断し、命令したトルーマン大統領が悪いのか、日本ではこの議論が行なわれずに核爆弾の投下を受け入れてしまっている。しかし、一般の犯罪において誰が主謀者で、誰が従属者であるかを考えることが重要である。マインド・コントロールされると、価値基準の逆転が生ずる。リアリティや価値観を崩される。私が会った被告の7人は全員、礼儀正しく、真面目に人生を考える自分の好きなタイプの人間でした。

パスカル・ズィヴィ

浅見、西田先生と同じ意見です。私が会ったオウム元信者は、人間性が良く、その後に良い友達になりました。最初に“カルトと分かっていれば、そこに入る者はいない。脱会してからたまたま、自分のいた教団“カルド”であったことが判明するものである。そこに入ると、知らないうちに、少しずつ、心、判断、パーソナリィティが変わって行き、性格の優しかった人が最後には喜んで人を殺すというような“怪物”になる。3年前に、アメリカのある心理学者(リフトン)が「世界を救うために世界を滅ぼす(Destorying the World to Save lt)(渡辺学訳「終末と救済の幻想」(岩波書店))」という書物を著したが、この中でオウム真理教事件を詳しく書いている(訳書213頁)。天皇崇拝の名の下に、熱狂的な戦いや残虐な殺人行為を行なった第2次大戦の日本兵達、「人は非常に困難なことでも自らを捧げ自分自身のことは考えるべきではない」とさえ述べた、ナチス大量殺人計画を統括したヒトラー親衛隊のハインリッヒ・ヒムラーなど、人は環境によって大変重大な行動を犯す例は過去に沢山ある(引用終(要約引用))。知らないうちに、“心を変えられる”ということは、カルトの恐ろしさです。オウム真理教に入った若者は良い人たちである。編された若者は非常に残念であるが、なぜ殺人を犯すようになったかを私達は良く考えるべきである。これは、特別な人間に起こるべきものではなく、国籍を問わずに、誰にでも起こり得るものである。

貫名

90年代の閉塞感の中で、“世の中を良くしたい”という若者の願望があった。社会に対する反発と違和感をもった若者たちは、それを“救済”したいということであった。そのような彼らが非常に真面目過ぎるがゆえに、オウムの麻原氏に絡みとられて、いつの間にか怪物的な存在になって行ったということであろう。これが、オウム問題の原点であるが、マスコミの皆様もこのことを確認して考えていただきたい。すなわち、オウム真理教は80年代~90年代にかけて興って来た新々宗教の一つであり、実験的な新宗教運動であった。宗教には、「神秘体験」が必須のものであるが、麻原氏の個性によってその解釈と方法がねじ曲げられた。しかし、それが若者の目には新鮮に映りその心が奪われて行った。その過程が客観的に見れば「マインド・コントロール」ということではないか。もし、キリスト教やイスラム教の影響力の強い社会であれば、周囲からオウムの教義なり修行なりに対して厳しい批判が出たであろう。しかし、日本は仏教国であるはずなのに、仏教者からオウム真理教の宗教(仏教の受容と適用)としての本質に迫る批判的な意見が聞かれないまま、8年間という時間が過ぎてしまった。人間の信念というものは、ある条件が加われば、本人の本来的な意志に反して殺人を含む行為に走ることもある。つまり、結果としてマインド・コントロールされてしまうことは誰にでも起こりうるものである。問題なのは、そうした間違った信念体系に人が陥った場合に、それを誰がどのようにしてそこから救出するかということである。その意味で、日本の仏教者のオウム真理教に対する無関心は許されないはずである。私は“マインド・コントロールを解く”ということは、古典的な言葉であるが更なる“回心(コンバージョン)”を促すことであると考えている。この宗教的回心こそが、「反省」と「贖罪」の基盤でなければならないと思う。しかし、一つの信念体系の誤りを自覚し、それを否定して別の信念体系に移るためには、個人差はあるにしても相当の時間を必要とする。裁判において、この宗教的信念というものの特質、さらにはマインド・コントロールについて、できるだけ踏み込まないように処理されたという印象が残る。しかし、この面における事実が隠されたまま刑が確定したとしたら、被害者・加害者ともに救われないのではないか。

司会

要約するど“今の時代に、宗教心を求めるからこそ、真っ直ぐな気持ちを持った若者たちがこういう新宗教に入り、そしてこのような事件を起こしてしまった“と理解して良いでしょうか。

貫名

その通りです。

司会

すでに多くのオウム真理教関係の判決が出ているが、サリン事件では直接実行犯は林郁夫の無期懲役以外は死刑等、その他は役割に応じて重い判決が出されている。これらの判決についてどう思うか。

滝本

オウム元信者の死刑判決が出る毎に重い気持ちになる。“宗教殺人”と”マインド・コントロールの結果でこのようになったこと(殺人を犯したこと)”とは論理的には別の話である。麻原以外の信者にとっては明確に“宗教殺人”であって“救済のために人を殺した”という事件であった。“悪意の殺人は悪かったという感情の限度があるが、善言の殺人は限度がない”とか地獄への道は善意の敷石で固められている“と言われる、それが宗教殺人だ。それはやくざより恐ろしいし、“宗教殺人だから、首謀者に死刑で、首謀者以外は刑を軽くする”べきだとは思わない。確信犯はむしろ重い罪であるべきだとするのが通例であり、宗教殺人であることが刑を軽減する理由にはならない。だが、私は松本智津夫だけを死刑とするべきだと思う。それは、信者違は麻原がつくった非常に巧妙な心を操作するシステム(1)にはめられ、その手足にさせられてしまったという外ないからだ。“はめられて行った”過程はマインド・コントロールおよび洗脳と言われるが、その点に、刑法上では犯罪を行なわないことに対する“期待可能性”が減っていたということになると思うからである。“麻原の手足にさせられた者”を死刑にしても何の意味があるのか、つくづく思っている (2)。また、麻原裁判の第一審では麻原の弁護団と検察が大間違いをしていた。検察は捜査段階では“宗教殺人”と位置づけていたが、近時は、オウム真理教は宗教てはないので“宗教殺人ではない”に変わっている。せいぜい宗教を背景にしたという表現しか使わない。実際には、信者は“麻原尊師は宇宙の全カルマを背負っている”と信じ、“救済”のために行ったので“宗教殺人”は明らかな事実である。宗教であると同時に破壊的カルトでもあることは、一向におかしくはないのだが、それが理解されていない。裁判の担当者は理解しても「宗教ではない」と思いたい世論に配慮している。

一方で、麻原弁護団は“麻原彰晃は宗教家である”と位置づけ、だから弟子が暴走したという信じられない論理の飛躍をさせている。私への尋問でも“麻原彰晃の霊性は高いか低いか“なぞと阿呆な質問をしてきた。“宗教性かあるか否か”には関係ないことで、重要なのは“松本智津夫がどれだけ信者や出家者を操作したか”なのに、まったく理解していない。こんなことでは、事件の本当の恐ろしさが示されないままになってしまう。

注(1)ここでマインド・コントロールのシステムを麻原が一人でつくったということを主張している訳ではない。グルはグル一人ではグルとはなり得ない。でもこのようなシステムをつくった主導者が麻原であることは間違いがない。この点が本質的であって他の信者にはシステムをつくったことについての責任がまったくないと言っているのではない。

(2)この段落の滝本の主張は、矛盾した主張をしているように思われるかもしれない。要点は麻原以外の信者たちにとって行為は宗教殺人であり、世の救済のためであった。しかし、このようなきわめて重大な間違った思い込みをさせられ、犯行におよんだのはマインド・コントロールの結果であり、期待可能性が大きく減じられたということである。

司会

判決文を読んで見て、裁判所がどこまで、マインド・コントロールについて理解していると思うか。これらを理解して、死刑、無期懲役を下しているのか。

滝本

裁判所は“宗教殺人”と言いたくなかったのだと思う。裁判所は一人一人の状況をどこまで把握して判決してきたか不安である。例えば、サリンの運搬役が定められたが、急に都合で別の者に交代している。それは、その時の麻原の気持ち次第であった。交代した者が“無期懲役”であり、交代させられた者が社会復帰している。サリン撒布役も麻原のその場での考えで決められた。それは全く偶然ともいっていいものだった。非常におかしな話だが、そのことを、裁判官は深く考えたのだろうか、と思う。

西田

判決文を読んでいると、“荒唐無稽”なことを信じてとあるが、私は彼等の信念を“荒唐無稽”とは思っていない。オウムの信者は馬鹿ではない。それなりに“つじつま”のあった論理でもって納得させられている。マインド・コントロールは“幻想”を如何に“リアル”に見せるかということである。その中で、彼らが目や耳で感じ、納得する論理がそこにあれば、彼らは信じる。例えば、“電気で物が動く”、“電子レンジで食物等が温まる”というような現象は昔では不思議で信じ難い現象であるが、これらは実際にわれわれが体験できる上に物事には科学的な理由があり、現在では、科学者という権威が上に述べたような現象を科学的に説明しているので、誰も不思議と思わず、至極当然の現象であると思っている。私たちは、実際に目や耳で感じたことや権威が述べたことを論拠として“世界のリアル”と信じているに過ぎない。 長い間、精神的に苦痛を与え、普通でない状態に追い込むと、人間は異常な状態になる。これは、我々の知識では説明不可能なことであるが、オウム真理教は信徒に対し、分かりやすく、納得の行く答えを出してくれた。その教えを受けた者は本当に効用があり、素晴らしい世界があり、素晴らしい自分になったという実感が出て来た。そのため、オウムに魅力を感じて行ったのは至極当然のことである。人間の身体は、信じ込みによって変化が起きる。以前はこの問題は心理学でのみ取り扱っていたが、最近では、医学にも取り入れられるようになった。しかし、他の学問ではこのことをまだ真剣に取り扱っていない。神秘体験があり、そのことの尤もらしい説明を受けると、その体験により、今までにない素晴らしい自分、素晴らしい世界に魅力を感じるのは当然のことである。この時、それを批判して別の説明ができる人がどれだけいたか。宗教家であったら、「修行すれば、誰でも体験できることである」、また、科学者であったなら、「それは科学的に証明出来ることである」というように、別の説明ができる人がどれくらいいただろうか。ただ、多面的な物の見方を忘れずに、幻想に向き合うことが出来れば、簡単にオウムに入ることはなかったであろう。

司会

西田先生や浅見先生を証人にしようとする弁護団は、どこまで、裁判所にマインド・コントロールを理解させようとしているのか。

西田

井上君の場合は第一審の裁判官は理解してくれたという実感があった。広瀬君や豊田君は第二審の結審が終わったばかりで、どうなるか待っている。検察官に、「頭はおかしい訳ではなく、責任能力があったと見なしてよいですね」と訊ねられたが、「問題は環境です」と答えた。彼らは、指示された通り黙って動く。そこを理解することはなかなか難しい。私は、「心理鑑定を行なった方が良いのではないか」と検察官に薦めた。実際には“やった行動だけ”が焦点となり、その背景についてはあまり取り上げられないという感じがする。麻原被告が、どうしてこのような指示を出したか、というようなことは麻原本人が話さないということもあるが、裁判では避けられており、本筋が隠されているように感じる。

滝本

判決文を見ると、その点は(マインド・コントロールについて)世界で初めての正面から議論されたこととして考えると、むしろよく書かれたと思う。だが、量刑には反映されていない。すなわち、林泰男被告の場合も判決文では、真面目であり真摯な姿勢でオウムに入った、それが麻原被告にはめられた「およそ師を誤ることほど悲劇はない」などと記述されている。だから、裁判官はこの点(マインド・コントロール等の事情)を理解していると思われるが、これだけのことをやったから“死刑”であるとされていた。裁判官も判決文を書く時には相当悩んだ形跡はある。つまり、誰でも真面目で、心の隙間があればはめられるものだということ、林被告が例外だったのではないということをこの裁判官は理解した。そのとき、一歩進んで、彼らを死刑にしないで現実に向き合い続けさせることが必要であり、その上で、彼らにこそ麻原の宗教的な言説というか破壊願望に対する思想闘争をさせ続けることが、大切なのだという判断ができたはずだと思う。それが、オウム真理教の信者の数を“0”にして行くことにつながり、一つの解決でもあるのだが。

司会

私の印象でも、全般的に割り切った判決であると思う。ほんの一部の裁判官だけがマインド・コントロールの理解に踏み込んでいると思う。

浅見

私の係わった4人の被告の例を見ると、求刑は全員死刑であったが、判決では2人は無期懲役になった。このことは、明らかに、一部ではあるが、裁判官はマインド・コントロールに興味を示し、情状酌量の理由の一部にしたと言って良い。カルトは、そこにいる人々(以下ジョンと呼ぶ)を強固な心理的な殼に閉じこめる。そのため、カルトにいれば、本来の“ジョンのジョン”(3)の人格は黙らされており、“カルトのジョン”(4)のみの人格となる(たとえば、“カルトのジョン”は99%以上、“ジョンのジョン”が1%以下)。“ジョンのジョン”は1%であるが、カルトから離れて、カウンセリング等を行えば、100%の“ジョンのジョン”に復帰する。事件を起こしたときは、“カルトのジョン”だったのだ。裁判官はこの点を理解はしているけれど、従来からの刑法の量刑体系があるので、この量刑体系を崩したくない、という考えがあるように思われる。従来からの量刑体系では、“心神喪失”、や“心神耗弱”の概念があったが、“マインド・コントロール”の概念はない。マインド・コントロールの概念を導入したら、従来からの量刑体系が壊れるのを非常に怖れ、次のような考え方を取ったと思う。「被告は確かに、“カルトのジョン”はあったが、一方では“ジョンのジョン”があり、“カルトのジョン”が犯罪を行うとする場合に、ブレーキ役を果し、未然に犯罪を防止出来たはずである」 これは、従来の量刑体系を維持するために、「被告達に、責任能力がある」としなければならず、“カルトのジョン”と“ジョンのジョン”の比率を50:50であると仮定した上に立って判決を行っている。

– (3)スティーヴン・ハッサン著(浅見定雄訳)、「マインド・コントロールの恐怖」(恒友出版)での用語、西田公昭はカルトヘ入る前のその人の本来のビリーフ・システム(信念体系)という用語を使っている(西田公昭著、「信じる心の」科学(サイエンス社))。 (4)スティーヴン・ハッサン著(浅見定雄訳)、「マインド・コントロールの恐怖」(恒友出版)での用語、西田は上記の著書においてカルトで形成されたビリーフ・システムという用語を使っている。

西田

サリン撒布の3人の被告のうち、2人は躊躇無くサリン撒布を行ったと言っていた。この時、彼らはオウムの生活に慣れ親んでいたから、本来の自分の心は作動することはなかった。 “本来の自分”の心が“フッ”と戻る時かおるが、これは常日頃、自分が経験していない事を行う時である。この場合は慎重になる。我々の日常の行動は習慣性があり、何でも無意識的に出来る。彼らはオウムの生活に慣れ親んでいたから、オウム以外の別のパターン(たとえば、親の感覚、被害者の感覚等)を見せつけられると、普通の人の場合であれば一瞬は躊躇するが、彼らは深くマインド・コントロールされているので、気づかずに無意識的に行動が出来る。即ち、優しい顔をして、喜んで人を殺すということが現実に可能である。マインド・コントロールはこの位恐ろしいものである。

浅見

しかし、マインド・コントロールにより、自分の心(すなわち、「ジョンのジョン」)が(意識の上では)0%になっていても、元の自分に回復することが出来る。

参加者

「意識の中には“自分”が残っていないが、無意識の中には“自分”が残っている」と西田先生は言っているのではないか。

西田

メンテナンスをしていなければ、マインド・コントロールは解けますよ。オウムの場合、24時間、麻原の声に囲まれていた。被告になって、警察官や弁護士等の一般の人の出会いがあるので、元の自分に戻るきっかけになっている。こういう場合にはマインド・コントロールを解くのは難しいことではない。

司会

マインド・コントロール関係の話は中断して、パスカルさん、判決に対する意見はどうですか。

パスカル・ズィヴィ

被告遠の一般社会に対する役割は終わっていない。彼らを死刑にすることは間違いであると思う。1970年代、アメリカでパトリシア・ハースト事件があった。パトリシア・ハーストは金持の娘(新聞王ハーストの一族)で優しい女性であった。ある日、ある小さな、過激的な政治団体に拉致された。そこで、洗脳され、暴力的な性格になった。拉致されてから、数ケ月後、銀行強盗の仲間となって銀行を襲撃し、殺人まで行なってしまった。そして、彼女は逮捕された。有罪判決を受け、刑に服した。刑務所の中で、彼女は良いカウンセラーに出会い、優しい性格から凶悪な性格に変化するプロセスの一つ一つを知ることが出来た。  現在では、普通の生活を送っている。それだけではなく彼女は、現在、自分の経験をベースに沢山の人々にアドバイスを行うことにより、世の中の人々の積極的に役に立っている。これは一例だが、オウム真理教の事件は宗教論理を通して、マインド・コントロールを受けた事件である。彼らは、カウンセリングを受けて本来の自分に戻ることが出来るので、死刑にするよりは、自分の経験を生かして、他の人のカウンセリングを手伝うことができる。彼らを死刑にすることは反対です。

浅見

パスカルさんの話を要約すると、次のようになる。彼らを死刑にするよりは、彼らが変わって、『死刑に値するほどのことをなぜ出来るようになったか』を、日本の社会の中でずっと語って行く方が大切である。

貫名

不殺生を戒とする仏教者として、私は基本的に死刑制度に反対する者である。それは先ほどのパスカルさんの意見と全く同じである。オウムの犯罪に係わった者たちは、とにかく生きて、自分の心の中の問題を一生かけて、後世に語り続けて欲しい。彼らは、サリン撒布という無差別大量殺人兵器を使ったテロ行為を2回も行なったオウム事件を起こした当事者であったことの意味を、一生かけて、考え続けてもらいたい。マインド・コントロールや洗脳のことが斟酌されているかと期待しながら、これまでのオウム裁判の判決文を読んできた。しかし、例外的な事例を除いて、“事実(事件)の背景にある真実(理由)”を見ようとしないで、“事実(事件)”の部分だけで判断しているとしか考えられず、この点が残念であった。宗教の定義は難しい。したがって、“宗教の犯罪”の何たるかを定義することも難しい。しかし、それでもこの一連の事件を“宗教の犯罪”として包括する必要があると思う。そして、その中で“マインド・コントロールの恐ろしさを認識して行くことが必要であると繰り返し訴えたい。さて、量刑として、死刑に次いで(終身刑がなく)無期懲役となっていることは周知の事実である。しかし、すでに述べた事柄を考慮に入れて、司法としての一歩踏み込みが必要なのではないだろうか。死刑なら終身刑に近い形の無期懲役というように、一等罪を減じることこそがなされなければならないと思う。長い期間、刑に服している中で、一生をかけて反省し、償いを行い、その中で被害者に謝罪をして行くことを促す判決であって欲しいと思った。

司会

死刑廃止を前提としていますが、死刑があるという前提でも、貫名先生は麻原氏以外の被告人を死刑にすべきでないとお考えですか。

貫名

ある宗教組織を主宰した人の犯罪は、一般人に比べて、遙かに罪は重いはずである。法律上、宗教の存在は元来「性善説」の上に成り立っている。それを知りつつ、犯罪に利用するのはその責任において非常に重大であり、先ほどの死刑に反対するという持論と二律背反することは承知ながら、麻原氏の場合に限り死刑に値するとしてもやむを得ないと思う。

司会

一般信者の場合はどうか。

貫名

一般の信者の場合は、彼がどこまで自らの行為が重大であり、かつ、“命を以って償うべきもの”という実感や自責の念があるかどうかにかかっている。例えば、聞くところによれば、土谷君の場合、マインド・コントロールを受けたままの状態が続いているようである。このまま物理的に死刑を執行したとしても、本人の心の中では“真実”が覚醒されないままである。それでは、真に罪を償ったことにはならない。単なる麻原氏への「殉死」の容認である。本人に内発的な覚醒(回心と罪意識の発生)を促したいので、とりあえず拙速な死刑執行には反対する。最終的には終身刑と質量ともに同等の刑への軽減を望む。

司会

2月27日に、麻原被告の判決が出るが、それについての意見を聞かせて欲しい。

滝本

人間は底知れず素晴らしいものですが、一方では底知れずおぞましいものでもある。だから、人を死刑にしたいと思うおぞましい気持も含めて私は死刑制度の強固な存続論者である。麻原に限らず、たとえば、大阪池田小学校事件の詫間被告など、死刑は当然である。だが、オウム事件に関しては、松本智津夫以外の被告に対し、死刑は適当でない。オウムの現役幹部は、今、死刑判決を受けた人たちの魂について「大いなる艱難を与えられた祝福された魂」なぞと、言っている。松本被告は、そのしょうもない態度が法廷で明らかにされたから、殉教者にも「神」にもさせずに死刑にできる。だが、ストイックに「修行」をし、真面目に信じて罪を犯した者まで死刑にすれば、後世、「祝福された魂」と、なって しまう危険性がある。昨年10月末の麻原弁護団の弁論、特にその総論には驚いた。麻原は宗教家であるから弟子が暴走したと言うほかないとしている。宗教の素晴らしさと恐ろしさを知らない。検察の論告も、本件が実行犯にとって宗教殺人であったこと、それ故に恐ろしい事件だったことを述べていない。「宗教を背景に」といった程度のことを言ったのみだった。また裁判では、現役の信者らに少しでも犯罪への現実感をもたらすために、自動小銃の現物とか、化学兵器禁止条約の関係で難しかったかもしれないが、サリンの入っていた袋などの物証を出すとか、工夫をして欲しかった。

司会

捜査段階では検察が良く勉強して、関係者の話を良く引き出したが、公判に入ると関係者の話は出なくなった。現在、状況は80%位判っているので、裁判上は支障ないが、“なぜ麻原がこのような事件を起こさせたか“等の中核的な部分が明らかになっていない。

滝本

この点け松本智津夫が話さなければ誰にも分からないことである。麻原弁護団は、麻原と心を何とか通わせ、口を開かせようとする努力が足りない。弁護団員12人が交代でもっと面会に行き続けるべきだった。法廷でも松本智津夫の発言を止めようとするばかりだったが、被はここ数年追い詰められて何も話せなくなってしまった。井上被告弁護団はこれと正反対に、井上被告にロを開かせようとして非常に努力していた。それが実を結んだ。松本智津夫は元来、おしゃべりだ。話したくて仕方がない。弁護団との接見を拒否し始めた後でも、1999年9月の豊田被告の法廷ではいろいろと証言もした。麻原弁護団の努力不足がわかる。また、本人の意向をそこまで無視して弁護していいものかどうか、弁護する対象は被告人であって刑事訴訟法ではないのだから、おかしいと私は思う。

司会

パスカル・ズィヴィさん、来る2月27目の感想についていかがですか。

パスカル・ズィヴィ

感想としては、ここまで来るのに長い時間がかかった。貫名先生は仏教者として、死刑反対ですが、私は、すべての人間は神から創造された、人は人を処刑する資格はない、というクリスチャンの立場から死刑に反対する。死刑を実施しても、問題は解決しない。 麻原を死刑にすれば、現在オウム教団に残っている信者は麻原を“殉教者”として、更に強く信奉する可能性がある。いや、絶対にそうなる。麻原は、苦労させ、反省に反省を重ね、自分が犯した罪が判るまで生かして置くべきである。

 

西田

検事は麻原を“宗教者”として見て欲しかった。量刑としては、死刑以外にないと思っている。“麻原とその弟子達が同じ量刑で良いのか”という疑問が残る。刑期について、制度の改革が必要であると考える。現在の量刑は人生50年であった昔に制定された。現在は人生80年と寿命は大幅に延びている。現在の量刑は死刑の次は無期懲役であるが、無期懲役でも、実質は20数年で一般社会へ復帰する。20才位で罪を犯して無期懲役になっても、40才位には社会復帰できるので、人生はやり直せる。その者が良い方向に生きれば良いが、再び、罪を犯す場合もあり得る。従って、40年、50年の刑期があっても良いのではないか。

司会

現在、40年、50年の刑の創設等、具体的な改正の検討作業が行われている。どういう形になるか分らないが、そのような方向に行くであろう。

浅見

中村君の第二審判決で、裁判官は、西田先生が言われたように、“限りなく極刑に近い無期懲役”という表現を使っていた。死刑廃止論にも種々な意味合いがある。麻原彰晃の場合、私は今のような状態のまま死刑にされたら、たまったものではないと思う。生きて、一万年でも苦しんで貰いたい。もし、見せしめ論でも被害者感情論でも死刑がいいと言うのなら、せめて執行前に、被害者の家族に堂々と予告する等のことを行えばいいのに、日本ではいつも法務大臣がこっそり署名して死刑を執行している(6)。検察、裁判所は情状酌量を行うと面倒くさいので、麻原は死刑、サリン撒布を行った弟子は死刑、運搬役は無期懲役というように、行った事項だけで量刑を決めている。これには納得が行かない。また、絶対命令者である麻原とその呪縛(マインド・コントロールの)被害者という側面を持つ実行者とが同じ「死刑」では(死刑には重い死刑と軽い死刑の区別はないので)どうしても納得ができない。   (6)浅見は「個人に許されない殺人が国家には処罰として許される」という理由の死刑には絶対反対の立場に立っている。だからこの段落は「死刑が必要と叫ぶ人々に対する」かなり皮肉をこめた浅見の表現となっている。間違ってもこれを浅見の意見だなどととらないで頂きたい。浅見は編者にご自身のお考えの詳細を説明され、そのご意見には編者も賛成だが、ここでは割愛する。浅見の意見の詳細を知りたい方は小野弁護士までご連絡下さい。

司会

平岡先生、この件に関し全般的に話していただきたい。

平岡

脱会信者の精神的なケアをしたり、家族の会の皆さんの相談にのりながら、信者本人たちがオウムから脱会して帰って来るのを待ち望んでいる。脱会信者は社会に馴染まず、オウムは多くの犠牲を本人及び家族に負わせている。「もし、オウムに息子や娘が入らなければ」と親は何度も何度もため息をついている。1995年~1998年に多くの脱会者が出たが、脱会者に聞くと、「マインド・コントロールの被害者が他の人への加害者になる可能性がある、あるいはなった。だから自分はここに居れない」と言っていた。私は「被害者が加害者になる辛さ」を家族と一緒に味わっている。事件において、被告は自分の意志で行ったと言っているが、その計画や実行役、運搬役を決めたのは松本智津夫である。彼が黙っているために、どうしてそのような役目を自分が命令されたのかそれが何故かも判らないまま、被告達に量刑が来ている。これは全く納得行かない。死刑については反対ではあるが、この場合、麻原は首謀者なので死刑は当然と思う。しかし、弟子達については死刑ではなく無期刑に減刑されることを望むが、一部の弟子たちが最終的に死刑に確定となったとしても、受けたマインド・コントロールを自ら解いて、自分のしたことを吟味し、被害者に謝罪の気持ちを持てるための、十分な時間を与えて欲しい。万一死刑が確定しても、それを執行しないでほしい。私、死刑反対論者ですので。あるいは、十分な省みがない限り、死刑自体に意味がない、という気持ちです。

司会

諸先生から一通りの話を伺ったので、ここで会場からの質問を受けたい。

参加者A

マインド・コントロールのために価値観を変えられた子供たち、彼らは世の中の救済という大義名分のもとに犯罪を起こしたが、そのことを納得していたか、全ての人がそうであったか、について諸先生一人ひとりに回答願いたい。「彼らは6代、7代先まで、自分の家族を救済出来る」と思っていると、私たちは聞いた。彼らは喜んで、人を殺したのか、全ての人がそうであったか。恐怖心であるとか、後ろから脅迫されていたとか、その心理  状態が一時的にトランス状態であったとかで罪を犯したのか。私たちはこのようなことは心神耗弱とは思っていない、本人たちは(死刑が確定すれば)了解しながら死に臨むと思うが、私たち家族は「子供を救いたいと思う」親の気持を無駄にしたくない。

西田

一人ひとり調査したわけではないが、私が調べた範囲で回答する。それぞれの心理状態で違っている。私が接見した者(サリン撒布実行犯)は“救済”と思い、躊躇なく行なったと証言している。一方では、いくつかの犯罪を行なって来た者は、命令の際、“犯罪”とは思いながらも、“命令を受けなければ自分も殺される”という恐怖心を実感していた。私たちのもっている普通の価値観を感じないで行動できるのは、少なくとも出家生活1年以上の信者である。我々のもつ普通の価値観と葛藤しながらも、“麻原への忠誠心が試されている”ということが分かっているから、“やってしまった”ことについて正当化しようとする人もいる。種々の人間タイプがあるのではないかと忠います。

浅見

私が出会った4人とも、“自分は麻原に試されている、マハームドラーの修行(7)”と思 いながら、ためらいながら行ったと私に言った。麻原は後期に於いて、懲罰を頻繁に実施してきた。そのため、信者に恐怖心が植え付けられた。人によっても違うし、一人の中にも、複数の“ためらい”があり、それでもやってしまった様子が分かる。 “救済”のためにという名目で殺人等の犯罪を行なった人々は最も同情に値する人と思う。100%目覚めさせてやりたい人である。

(7)マハームドラー:グルがわざと信者が疑問に思うワークや修行をさせ、それを乗り越えさせることで、グルヘの帰依心を徹底させる。オウムの場合、麻原の意図に疑問をもつことは許されないという。(要約引用)(東京キララ社編集部編、「オウム真理教大辞典」(東京キララ社))

パスカル・ズィヴイ

オウム真理教ばかりでなく、他のカルトでもカルトに関係した、若者は、自分の心の中で戦いをしている。オウムの人達は、本来ぱ真面目な人”、“嘘をつけない人”、“命を大事にする人”、“犯罪もしたくない人”であるが、事件を起こす時に、心の中に葛藤を何も感じないということはない。自分の心の中は、苦しかったけれども、宗教の論理が出て来て、“救済”のために人を殺す。“おかしい”と思っても人を殺す事が出来る。中には、犯 行後には「“救済”をしたのだ」という喜びを感じる人もいる。例えば、林郁夫受刑囚の手記にはつぎのように書かれている。

サリンが入ったプラスチックフィルムを傘の先で突き破る際、「私は医者で、人の命を救う立場でありながら、大勢の人を殺そうとしている」と、心の中では、医師の使命感と宗教論理との聞で相当の葛藤があったが、結局、宗教論理の方が勝り、“救済”のため、プラスチックフィルムを破ってしまった。これが、マインド・コントロールの恐ろしさである。この点を社会やマスコミは理解して欲しい。

滝本

岡崎被告、林郁夫被告等、マインド・コントロールにより、麻原はオウムで絶対的存在であるので、麻原の指示に自動的に動いてしまうロボット化した信者に関するエピソードを紹介して、マインド・コントロールの恐ろしさと麻原の責任を力説した。

 

司会

滝本氏のエピソードを積み重ねる中に真実が見えてくると思います。

参加者B

被告の減刑嘆願について、お聞かせ願いたい。地下鉄サリン事件等の重大な事件で、麻原は首謀者であるので、当然、厳罰であるべきであるが、越えてはならない一線を犯した信者もそれなりの処罰があってもよいのではないか。

滝本

私は、サリン、VX、をかけられ、ポツリニス菌を飲まされ、殺されそうになった経験がある。偶然生き残った。接見したときに見た岡綺被告の手は小さかったが、あの手で同僚弁護士の坂本の首を絞めた。中川被告の指は太くあれを龍彦君の顔にかぶせたと思うと、何ともいいようのない気になった。だが、被害者の癒しは、必ずしも被告を死刑にすることでもない。坂本が救いたかったのは、そんな信者たちでもあった。麻原の死刑は動かしがたいが、実行犯の状況を知ってもらうことにより、手足に過ぎない彼らを死刑にしても、(被害者とその家族にとって)何ら癒しに役立たないことが分かってもらえると思う。

司会

地下鉄サリン事件でご主人が犠牲になった高橋シズエさんとよく話をするが、林郁夫被告の公判の時に「死刑にしないで欲しい」と証言した。その結論を出すのに1~2週間考えたとのことだ。しかし、「死刑にしないで欲しい」との発言がそこだけ、マスコミに取り上げられ、「被害者の言葉ではない」と世間に批判された。死刑にしても、または、死刑にしなくても、いずれにせよ、高橋さんにとっては、癒しにもならないし、心で葛藤がある。1~2週間考え抜いた結果が上述の証言となった。種々の被害者の気持があり、マスコミの方はその点を考えて報道して欲しい。

滝本

現役信者にとっては、「殺された人は守護者である。死刑になる人は大いなる祝福された魂である」と今でもオウムの内部では教えられている。オウム教団のある支部長をしている信者からは、真面目に「滝本さん、ポアされなくて残念ですね」と言われる。それが一番許せない。今、被告になっている人間よりも、このような事を思っている現役信者の方が恐ろしく、遺族の心の傷に塩をすりこみ続けている。

司会

だから、オウムを潰さなくてはならない。 ということで、パネルディスカッションのまとめとしたい。

 

 

永岡会長(最後の挨拶)

こういう形で会合を持たれたのは初めてである。パネラーの方々の話をしっかり肝に銘じて我々は聞くべきである、と改めて感じた。もし、そうでなければ、このままの状態が続くことは絶対に許されない。ここにいる家族の子供たちが、オウムの団体に関係しているのだから、“何が何でも子どもを取り戻さなければならない”という心を新たにしたことと思います。私は、それを信じて、皆様と一緒に頑張って行きたいと思う。

以後、集会アピール採択

集会アピール

来る2月27日、オウム真理教の教祖・麻原形晃こと松本智津夫に対する刑事裁判の第一審判決が下される。この刑事裁判で審理されている刑事事件は、地下鉄サリン事件・松本サリン事件・坂本弁護士一家殺害事件などの多数の殺人事件や重大事件ばかりである。すでに松本智津夫の共犯とされる信者達の刑事裁判のほとんどでは、少なくとも1審判決は下されており、有罪判決となっている。他の信徒に対する判決の中では松本智津夫の指示など共謀の存在が認定されていること、そして、松本本人に対する公判の状況からすれば、有罪の判決しかも極刑が予想される。

松本智津夫は、これまでの刑事公判の中で、なぜこのような事件を起こしたのかという動機や、オウム真理教をどのようにしていこうと考えていたのか、また個別の事件の実行犯をどのような観点から選別していたのかなど、被害者もオウム真理教の信徒達も、また国民全体が知りたいことを何も話さずにきてしまっている。そのために、オウム真理教の起こした様々な事件が、何であっのかは分からずに終わろうとしている。

これらの一連の事件では、松本智津夫の指示を受けた信徒たちが処罰され、なかんずく死刑判決を下された信徒達も大勢存在する。重大な犯罪を犯したオウム真理教の信徒達が重い刑事罰を受けざるを得ないことは当然のことである。このような犯罪によって犠牲となった被害者の方々なかんずくかけがえのない家族を失った遺族の方々のことを考えたとき、信徒の家族としても、その責任の重さにただ謝罪するしかない。とはいえ、死刑という取り返しのつかない究極の刑事罰まで与えることは行き過ぎではないだろうか。死刑制度の存置を前提としても、それぞれの信徒達は松本智津夫の絶対的支配の下にいたものでありその指示によって行われた犯行であって、その指示を拒否することは現世での死刑以上に重い措置が待っていたものであって、拒否することは事実上不可能であった。また、例えば地下鉄サリン事件の実行役と運転手役で死刑となるかどうかの差が出ているが、このように誰が何の役割をするか、あるいはどの信徒が選ばれるかということも、松本の意思によるものでしかなく、信徒側から見れば偶然とも言えるものでしかない。  更に、信徒達を死刑にするのであれば、松本智津夫による新たな殺人行為が行われるものと均しいものと考えられるからである。松本智津夫以外の信徒達の刑事責任は重大ではあるが、松本本人の責任の方が重大なはずである。それが同じ刑事責任とされることも著しい刑罰の不均衡である。

このようなことを考えるとき、信徒達への死刑判決は重きに失するものではないだろうか。そして、もし、死刑判決が確定したとしても、現実の死刑執行はすべきではない。死刑相当とされた信徒達は、被害者の現状に正面から向き合って、一生をもって償いの機会とさせるべきものではないだろうか。

本集会に集まった一同は、被害者に対する心からの謝罪の意を表明しつつ、信徒の死刑判決及び死刑執行を回避していただくことを求めて、本アピールを採択する。

2004年2月8目 2.8.集会参加者一同